1948年6月28日、福井地震は、終戦から3年目で戦災からまだ立ち直っていない越前平野のほぼ中央部を襲った。内陸型で、夕方の炊事の時間帯だった。死者は福井市内の映画館などで約3,700人に及んだ。蛙の同級生も1人亡くなり、蛙の通っていた小学校の女先生が児童をかばって校舎内で亡くなった。児童の話から3日後に先生の行方がわかったという。
戦災の中無事に生き延びた蛙家族はここでも奇跡的に助かった。
当時小学2年だった蛙が、今も特に鮮明に残る記憶を漫画にしてみることにした。
1948/6/28 母の話では、どんよりとした日が数日続いたそうだ。この日の夕刻、地震は起こった。体が空中に投げ上げられたように感じた後、もう九頭竜川の土手下に転げ落ちていた。わけわもからずに這い上がった土手の上からは、町並みも森も田圃も何も見えなかった。全体が土色の煙に覆われていた。土手の上の道には真ん中に深く大きな亀裂がず~と走っていた。土手が何回も大きく揺れた。何が起きたかわからなかった。別世界に入り込んだように思えた。先生も二人の友達も無事だった。
当時蛙は小学2年生。いくつかの偶然が幸いした。
当日の放課後、郡の写生大会に出る児童が残って絵の練習をしていた。それが終わり帰宅しようとしていると、担任のN先生から一緒に帰ろうと誘われた。先生は新婚で、帰る方向が一緒だった。校門を出るとき、先生が九頭竜川沿いの実家に立ち寄るというのでそちらに道草することになった。先生の用事が済んで九頭竜川の土手を歩いて帰ることになった。ちょっと遠道になる。地震はその土手から街の方に降りる坂の手前で起きた。先生と児童3人、土手の上の路の真ん中に口を開いた亀裂には落ちずに土手から転げ落ちた。怪我もなかった。こんな偶然があっていいものかと今は思う。もし、学校からいつもの町中の狭い道を通っていたら、蛙は間違いなく家屋の下敷きになっていただろう。
先生は、陥没し冷たい湧水で膝から腰まで浸かる田圃道を、ときには水に浮いてしまう子供3人を引きずって、それぞれの家族の元へ連れていってくれた。妹を背負った母が壊れた家の横でおろおろしていた。母は蛙が帰るのが遅くて、妹を背負って外で待っていたので、妹のかすり傷程度で家の下敷きになるのを免れた。因みに親父も勤め先を出た路上で地震に遭遇したという。
蛙の住んでいた町は、親戚の病院の建物と、1階が完全につぶれて2階が残った友人の家以外全壊だった。
漸く親父が帰ってきた。
蛙が無事帰ってホッとした母は、父の帰りを心配しながら待った。まだ明るかった。壊れた家がかぶさっている道を、やっと父が帰ってきた。半分程中身が入った一升瓶を提げていた。それは当時父にとって貴重な焼酎だったと後で知ったが、父の口には入らず、近所のけが人の消毒にありがたくも使われたという。
隣家が火事
崩れた隣の家の屋根からけむりが出だした。みんな大変なときなのに、近所の人たちが集まってきた。屋根をはがしてあけられた穴から、バケツリレーされて水が注ぎこまれた。水は近くの汲み上げポンプから溢れていた。火元に直接水をかけられず長い間かかったが、幸い火は消し止められた。
みんな助け合っていたな。
今のようにボランティアなどの活動はなかったし、自衛隊の出動などもない。壊れた家屋の解体は自分らでやるしかなかった。
大きな作業は隣近所で協力し合った。後は自分々々でコツコツと。親父の作業が何カ月かかったか記憶は定かでない。雪が来る前に整地された所にバラックが建てられたことは確かだった。燃料は廃木材でった。
蛙ら子供の仕事というか遊びは、金物とガラス集め。屋根瓦を止めていた銅線は、屑屋で高く買ってくれて、子供の小遣いになった。
一晩中隣り町が燃えていた。いつもは闇の中にほとんど見えない隣町なのに、日が暮れてくると、田圃と林越しに町が赤く燃えているのがわかった。街並みが連なっていると思えるところが全部燃えているようだった。夜になると火炎はますます大きく見えだし、空は真っ赤になっていた。
その日の夕食はどうしたのか覚えていない。多分、母は地震の前に炊事を済ませていたのだろうから、何か食べさせてもらったはずだ。
寝るところはなく、余震を恐れて竹藪の中で、壊れた家から取り出したものを敷いて寝た。もう寒い季節ではなかったが、夜中に蚊に悩まされた。隣り町は朝も燃えていた。
震災の数日後から、竹藪の中に何張かの蚊帳が吊られた。数家族の仮住いだ。梅雨の間、蚊帳の上に板などを載せ、むしろを立てかけてて雨をしのいだ。その間も各家では自分自分で壊れた家を取り壊していた。バラックの住処ができたのはその作業が終わってからだった。
子どもたちは、水が少なくなった川で思いがけない獲物をゲットし、はしゃいでいた。親は取り壊し作業に汗だくで作業しているのに。
蛋白源は川魚
地震でまだ陥没して低くなったところは浅い沼地。大きな鯉や鯰が産卵に来るし、しばらくすると孵化した小鮒などが群れをなす。遊びで大きな鯰を追っかけたり、小鮒をすくった。タニシも捕れた。
母は鯰の調理を嫌がったが、白身でホロリとして美味かった。小鮒の佃肝美味かった。タニシ、イナゴもときどき佃煮になった。
蛇
震災復興で、工事の人が飯場で生活するようになった。いろんな人がいて、子供たちの遊び相手もしてくれた。
ある日、竹串にさして焼いたものを食べさせてくれた。今のかば焼き風で美味しかった。その人は笑いながら”これはアオダイショウ”だといった。アオダイショウは家に住み着いてその家を守っていると聞かされていて、この蛇には悪戯しなかった。だから、こんなことして良いのかとぞ~っとした。
あっ!やられた。
田舎でも食料は極端に不足していた。特に疎開して居ついた蛙家族等にとっては。
20分ほどかけて下肥をせっせと運び、九頭竜川の土手に沿ってサツマイモ、カボチャ、ジャガイモ等をつくった。ある日、もう収穫できるぞと出かけてサツマイモの蔓を引っ張ると、するりっと抜けてきた。イモだけ掘り出し、蔓を土に刺して残した悪賢い泥棒。
ガッカリし腹が立ったら腹が減った。
配給の赤砂糖でカラメル
当時、赤砂糖の配給が度々あった。
アメリカからもらったらしい。こんなものは当然主食にならず、母は、玉杓子の中で溶かし膨らし粉をいれてかき回し、カルメラ(風?)を作ってくれた。また鍋で溶かしてあめにもしてくれたなぁ。そういえば学校では、給食に脱脂粉乳をそのまま紙の上に配られてなめたり、お湯に溶いて食べさされたこともあった。
一升瓶
震災の記憶として一升瓶の印象が強い。
多分親父が地震の後に一升瓶を提げて帰ってきたときの印象と結びつくのかも知れない。
・店で一升瓶で海水を売っていた。
親父も三国町まで塩水を汲みに行った。
震災からようやく人(経済活動)が動き始めてからだと思う。
・一升瓶に玄米を入れ、棒を突っ込んで米つきをした。
・田圃などで撮ったイナゴを塩ゆでしたり 炒ったり佃煮にするため、
一升瓶に詰めてあくを吐かせた。
テント授業
地震の後、学校の授業はテントで再開されたが、冬は、登校すると雪の重みでテントが倒れたり押しつぶされるようにしぼんでいることがあり、先生方が雪かきしてテントを掘り出したり、張り直したりしていた。寒さ対策として、テント内にどんと据えられた石の火鉢に炭が焚かれていたが、その温かみでテント周辺の雪が解けて、足元は水浸しなることがあった。穴の開いたゴム長に水がしみこみ、冷たい思いもした。梅雨時から夏は蒸し暑く、ジメジメした中で先生も生徒も汗をかきながら授業が行われていた。皆寄り添って生きていたんだなあと今になって思う。
木炭バス
福井地震の前かその後だったか・・・、街中の狭い道を木炭バスが走っていた。ボンネットバスの後ろに燃焼釜と炭俵を積んで走っていたな。ときには、木炭を釜に足し、ハンドル付きのファンを運転手か車掌が回して火勢を強くし、場合によってはスタート時には客が下りてバスを押していたよ。
荷馬車
これも震災の前だったか後だったか今は定かでないが、狭い街道を毎日のように荷馬車が行き来していた。炭俵や薪、野菜にコメなどをどこかへ運んでいく。子供たちが荷台の開いたところに座っても叱られることはなく、しばらく荷馬車の揺れを楽しんだりしたものだ。ときには馬糞が道に落ちていることがあったが、いつの間にかなくなっている。今なら、大クレームがついただろう。