終戦時の記憶


8月になると、日本は戦争、原爆のことなどを蘇らせる。当時のことがいろいろ話題になる。テレビも特別番組を組む。6、9日には原爆の日の記念式典、15日には戦没者追悼式などが行われる。ただ、それらの式典では日本が被害者の立場で多くのことが語らえるが、何故か日本が加害者であるということが忘れられている、というか敢えて避けられているようにも思う。戦没者追悼式での安倍首相の式辞でも、他の国への加害者意識はなく、したがってその反省の弁もなかった。

記憶の中の戦時中の絵を描いているある画家がいる。当時の写真展もいたる所で開かれている。蛙は終戦1カ月後に満5歳になっていた。蛙にも、わずかだが記憶に鮮明に残る場面がある。それらは本当の戦争体験とはいえないかも知れない。

でもそれらをちょっと蛙漫画にしてみたくなった。2019/8


木製の電車のおもちゃ

幼年期、蛙は何故か電車が好きだったという。

木製の大きな電車があったことを記憶している。電車のおもちゃがあったから電車が好きになったのか、本当に電車が好きだったか定かでない。数回大阪で市内疎開したようだが、おもちゃの電車の記憶は、家の前を市電が走っていた大阪日本橋に住んでいた頃のことのようだ。

終戦の翌年から通った疎開先(といってもそこに根付く)の幼稚園では、電車の絵ばかり描いていたので、先生に不思議がられたそうだ。疎開先の田舎では近くで電車を見ることはなかったから。


防空壕

蛙が遊んでいた滑り台がのこぎりで切られている。当時は、ただ悲しかった。防空壕の天井板に使われたらしい。

ここは最初に日本橋から市内疎開したところだったらしい。お寺の塔と坂道を何故か覚えている。空襲に追われるように、その後何度か大阪市内を逃げ回ったらしいが、持ち運んだ家財は結局何も残らなかったという。木製の滑り台だあったのは今になってみれば不思議。

 


灯火管制の中

空襲警報発令のサイレンがなると、母が風呂敷包みを抱え、黒いカバーのかかった電灯のスイッチを切り、蛙の手を取って防空壕へ向かった。家の狭い庭に作られた壕には近所の人も一緒で、窮屈だった。


大阪が爆撃を受けた日

暗い空を何本もの白い光が走り、その中でキラキラ光るものが沢山見えた。サーチライトとそれに照らし出されたB29だったらしい。空が真っ赤になっいく。その光景を見ていたら母に防空壕へ引きずり込まれた。


疎開する日

両親の里、福井へ疎開するため大阪駅に向かう市電の中から、昨夜の爆撃でビルが燃え続けているのを見た。そのとき市電はまだ動いていたんだ。

幸いにも、大阪駅も昨夜の空襲は免れたようだった。1回目の大阪空襲は1945年3月13日だったという。

大阪駅で親父に、列車の窓から車内へ押し込まれた。中の人に何か頼んで、親父はどこかへ消えた。蛙は見ず知らずの人に預けられたということ。

後で、親父は機関車にぶら下がっていたらしいと知った。


疎開地へ向かう列車は人であふれ、機関車にも人が鈴なりだったという。親父も、蛙を他人に預けてここにぶら下がっていたのだ。


トンネルを出ると人の顔は黒くなった。

いくつものトンネルをくぐると、もうみんなの顔は真っ黒。トンネルに入るとわかっていても窓は閉じられず、通路の戸も満員の乗客で絞められない。デッキには人がぶら下がっていた。よくまあ、みんな耐えていたものだ。


列車内は人であふれ、トイレには行けない。窓からするしかない。蛙も知らない人にさせてもらった。子供は良いが・・・

女の人も窓から尻を出す。そのとき、周りの人は風呂敷や毛布などで隠してあげていた。滑稽といえば滑稽だが、皆真剣だった。

皆助け合っていた。


列車は時々止まった。トイレ休憩のためだったのかと今になって思うが・・・。

みんな列をなして立小便。スイッチバックするところでは、列車に戻るのに間に合わなかった人たちが傾斜地を駆け下りて列車にもどる。現在北陸トンネルがあるところだったようだ。スエズといったかな?


目的の福井についたとき、親父が窓の外から僕を受け取りにきた。互いに顔が真っ黒。周りの人の笑顔も黒かった。

黒い顔でサヨナラした。


ある日、ラジオの前に親戚、知人が集まりみんな呆然とし、哀しみ、泣いていた。

もちろん蛙には状況を理解できなかった。戦争に負け、ロシアがやって来てひどいことになると言う人がいて、それをみんな怖がっていたと後で知った。


今でも大きな西瓜を思い出す。

終戦後間もなく、食料買出しに親父について行った時、農家の人が、井戸で冷やした大きな西瓜を切ってくれた。親父が買ったのかその人の善意だったかは知らない。大きくて冷たくて甘かったことが今も記憶に残る。

でも、なぜ農業県の福井から滋賀まで出かけたのだろう?

後で親父に聞いたのか、今の滋賀県の近江鉄道に乗ったようだ。近江鉄道は、その後乗った記憶がないのに、何故か今も懐かしいように思う。

 


終戦直後、大阪に残った親戚を親父が訪ねたとき、食料の足しにと柿とサツマイモもって行ったらしい。大阪に着くと、見知らぬ男が何人も寄ってきて、その中の一人が親父に断るより早くリュックの中身を確かめ、中身を路上に出して売り始めたんだそうだ。瞬く間に柿もイモもなくなり、その男は売上金の一部をポケットに入れ、親父に残りを渡していなくなったという。

しかたなく親父は、大阪駅で別のものを少し買って親戚に行ったらしい。

そのころ蛙は何を食べさされていたのだろう?